昨日換気扇の羽が回っている様子を携帯のカメラで撮影しようとしたら、時間差がかなりあるみたいでした。動きを上手く掴まえられず目の前の現象と画像がずいぶんずれてしまいます。なんだか昔の衛星中継みたいだなと思いつつ、それでもこれはこれで興味深いです。距離は関係ないので数年前のモデルが持つ処理能力や表示(伝達)速度の限界なのでしょうね。
「ずれ」という表現は、その「ずれ」を含んだままひとつの風景として扱える、というところが面白いと思っています。「完全に別のもの」というのとは異なります。例えば小説や映画の展開は時間や観客の経過と読者の記憶のずれをどう作っていくかという部分に様々な技術が開発されているのだろうし、自分や仕事を通時的and/or共時的に俯瞰して見る(比較する)というのもよくあることです(「完全に別のもの」だったはずのものが突然つながったりもします)。
そんな「ずれ」を許容できるのは、脳がそのサイズ内で配線を組替えていける柔軟さを持っているからでしょう。ハードウェアとしてある程度制限があっても、ソフトウェアによって変化させられる部分も少くありません。自分自身以外も含めて影響を与えたり逆に与えられたりして、同じ状態であり続けることもできません。たぶん「ずれ」てる方が普通でそれをどう乗り込なすか、が重要なのでしょう。