アルバイト先の個別学習塾では、今日が新年最初の授業でした。大学受験生やその担当者にとっては2006年になっちゃった、というところでしょうか。
さすがに受験生っぽい顔になってきますね。覚悟というか勉強する生活に慣れてきたのか、いい感じです(そのまま大学生になってもその感覚を忘れないでね)。ところがそんな風になっていない子は心配です。いくらまじめでも油断しているのと変わらないというかなんというか。学校の定期試験じゃないんだからさ。去年と同じところで間違えます。
自分でも最近はTOEICのテキストを探して本屋で見比べたりすることがあり、そういえば「問題集の使い方」について学ぶ機会が少ないことに驚いたりするわけです。ある程度のレベルであればどれを使っても大差はありませんが、独習する環境をつくれないと続きませんので。今日はそんなお話です。
結論からいえば、ひたすら薄いのとどこまでも厚いのを併用して、補完しあいながら進める。もちろん実習などを伴わない座学の場合に限定されますが、これしかないように思います。以下英語の場合について考えてみますが、他の科目でもかぶる部分はあるかもしれません。
1、ひたすら薄い
ページ数が少なくて、たいていはポイントと問題と解答のみのもの。シンプルな構成の方があきません(ちょっときれいなセンスのよいデザインだとなお可、最近ではそのためか装丁が外注なものも目に付きます)。解説があってもコメント程度なため、特に初学者には入っていきづらいです。そこをカバーするのが本来は個人の熱意や努力なのですが、実際は学校とか学習塾に頼ることが多いです。
2、どこまでも厚い
参考書や辞書には、ここを調べれば載っているはず、という安心感が求められます。部屋の中で探し物をする時と同じです。目次や索引などを利用して探している情報に確実に素早くたどりつけること、表現の違いなどに言及していることが大切です。版数や刷数の多さに頼るのもいいですが、それよりは複数のものを買ったほうが便利でしょう。
実際には両者の中間に、どっちつかずな中途半端なものが多く存在します。英作文とか特定の分野に限ったものであれば効果を期待できることもあるし、もちろん自分に合って実力が伸ばせれば何でもいいわけですが、友達が使っているとか売れているらしいという理由で手にしてしまうのは不幸なことです。
例えば問題集なのに解説が無駄に詳しすぎると厚くなるし重くなるし読むのにも時間がかかります。しかもルールや例外がやたらと盛り込んであったりすると萎えますね。「これが重要」とか「覚えよう」とかやたら囲み記事があるけど、自分は何も見ないでそこまで書けるのかよ、みたいな。
それに解説文が話し言葉(しかもタメ口)なものとかもページ単位あたりの情報量が多くてわかったつもりで終わってしまいがちです。何に追われているのか、受験生たちから見れば年上だが社会に出ればちょっと貧乏くさい雰囲気のある著者(予備校講師とか)による、感嘆符つきまくりな話し方が特徴か。
少なくとも「正解のあるもの」を勉強するわけです。教わる相手を慎重に選ぶのは当然です。その上で、問題集を何度も繰り返して、薄さを演習量でカバーしていく一方で、分厚いと思っていた参考書や辞書の中身が自分の中で使いやすい形で再構築されていくのを実感できれば最もよいでしょう。
さらにはそんな自分を実感できれば、土地勘ができるというか応用が利きます。さすがに傾向というか限度というか向き不向きも見え隠れします。それは自分も悩んでいるところでまた別のお話ですね。